閑古錐〜生涯挑戦主義(毎週木曜更新…の予定。)

禅を愛好する、某スーパー勤務おばちゃんの日々

後悔していること

一昨日、高校時代に私が受講していた「漫画通信教育講座」のテキストを十数年振りに読み返してみた。
全300ページがバインダーで綴じられている分厚いテキストだ。表紙に「新人まんが家養成のための本格専門講座」とある。
現在のように専門学校や大学で漫画制作を学ぶという選択肢は存在していなかったので、当時としては画期的な通信講座だったと思う。

中身を読むと、漫画を描く方法はアナログそのもので、パソコンで制作するのが主流らしい現代とは隔世の感があった。それだけに懐かしさがこみ上げてきた。
添削をしてもらう為の作品をせっせと描いて送っていた頃を思い出した。講座を修了後、人生初の「漫画研究会(通称 漫研)」に入会した。

短大の受験勉強に専念する為、その漫研は高3の時に退会したが、短大入学後に、別の漫研に入会した。この漫研は結局20年以上という長期間在籍していた。
この漫研では、連載・読み切りと何作か描いて私としては精力的に活動した。楽しい思い出ばかりだが、ただ一つ、後悔していることがある。

それは、漫研の会誌で私が連載漫画を描いていた時のことだ。自分で言うのもなんだがその漫画は会員間で好評で、私はそれが嬉しくて意欲的に制作していた。楽しんで描いている内に連載は長期間になった。

連載開始からそろそろ4年になろうかという頃、突如私はスランプに陥った。全く描けなくなり、連載は中断した。
中断して一年程経った時の会誌に、ある会員のクレームが載った。


「毎回、〇〇(私のペンネーム)さんの作品を楽しみにしていたのに、急に連載が中断してしまってガッカリしています。何の説明もなく中断したままなんて、無責任じゃないですか? 私は「〇〇(私の連載作品タイトル)」を読む為だけに会費を払っているのに、読めないのなら会費を払う意味がないので、もうこの漫研を退会します。」


ここまで私の作品を熱心に読んでくれていた人がいたのかと驚いたが、ひどいことに私はこの時、その会員さんに対して何も対応しなかった。出来なかった。
ただただ、何も描けない自分を責めるだけだった。
そして、このクレームを書いた会員さんは、間もなく本当に退会してしまった。

それから長い年月が経ったが、今でも私は後悔している。なぜ私はあの時、あのかけがえのない読者だった会員さんを大切に出来なかったのかと。自分の気持ちにだけ浸っていて、他者の気持ちを慮ることができなかった。

この経験から私は、たとえ一人しか私の作品に興味を示す人がいなくとも、その一人に向けて作品を描こうと思うようになった。
私の作品を読む為だけに漫研の会費を払っているとまで言ってくれたあの会員さんには、本当に申し訳なさと感謝で一杯だ。

 

WBC準決勝勝利を観て反省

WBCワールド・ベースボール・クラシック)で日本代表が見事優勝し、日本中が大盛り上がりだが、私も日本の試合日はテレビに釘付けだった。
優勝が決まった瞬間は勿論感動したが、私は準決勝の試合に最も感動した。
準決勝試合があった21日は仕事がたまたま休みだったので、自宅のテレビで試合開始時間から観戦することができた。
が、4回表でメキシコに一挙に3点を先制された時、これはもう日本は負けるかもしれないと思い、試合を観る気が失せてしまった。テレビを消して、買い物に出かけた。


買い物から帰宅して、やはり試合が気になったのでテレビをつけてみたら、日本が勝利を決めた瞬間が映し出されていた。それも、最後の最後、9回裏での大逆転サヨナラ勝ちだった。こんなことがあるのだと驚き、感動した。そして、早々に諦めて試合を観るのをやめたことを反省した。私は、自分の思い込みでさっさと諦めてしまうところがある。最後の最後まで、簡単に諦めてはいけないと思った。
実はここ最近、マンガを描くことについて意欲が薄れかけていたのだが、WBCの準決勝で日本が勝った試合を観て、諦めずにまた頑張ろうと思えた。

自分を励ます、きょうの禅語。

無縄自縛(むじょうじばく)。縄もないのに、自分で自分を縛りつける。

思い込みや先入観で、私は可能性を狭めてしまっていたといえるかもしれない。

 

朝は「黄金の時間」

私は出勤時間の関係で朝3:30に起床している。とはいえ、勤務は7:00開始なので、もう少し遅い起床でも充分間に合うのだが、誰も起きてこない静かな居間でコーヒーを飲みながら、録画してあったテレビ番組を観たり等、自分のやりたいことを出勤時間までたっぷり楽しむ為だ。何かで読んだが、一日の中で朝は最も頭がよく働く「黄金の時間」なのだそうだ。


たしかに、私の場合も朝の方が頭の中がクリアな状態でいろいろ良いアイデアが浮かぶことが多い。なので何か思いついたらすぐにメモするようにしている。
メモは、絵を描くスケッチブックも兼ねていて、私が長年愛用しているのは「月光荘」のスケッチブックだ。ボールペンで字を書く時も鉛筆で絵を描く時も、とても描きやすい。紙質も厚過ぎず薄過ぎずでちょうどよい。


私の住む市内の文房具店では、私の知る限り1店しか「月光荘」の文具を販売している
店がないので、どうか販売し続けて欲しいと願っている。

朝型人間

私は、朝に良いアイデアが浮かぶのだと改めて自覚した。


先日、本棚にある文庫本「先送りせずにすぐやる人に変わる方法」を読み返したくなり、散々探してようやく見つけた。(どの棚にどの本が入っているかメモに書かなければ…。)
その本に書いてあった中で、「朝一でやる」というのがあった。
本当にやりたいことは、朝一番にやってしまうのがよいそうだ。
私は、早朝からの仕事をしている関係もあってか、朝早くに活動するのが好きだ。

できればマンガも朝に描きたいが、出勤がある日は自宅を出る前にヨガ・血行を良くする呼吸法など、毎朝の習慣が沢山あるので、マンガを描くのは難しい。以前、「3分間だけ読書」をしようと試みたが、続かなかった。
朝活を充実させる余り仕事に支障をきたすようでは本末転倒だ。

 

「雑誌の切り抜き」で励まされる

早いものでもう3月だ。
スーパーでの仕事をこなしている内に、いつの間にか1ヶ月が過ぎているといった感じだ。何もしていない訳ではないが、常に私の心の中には、「これではいけない。」という焦りがある。

いつか、マンガを描くことが「本業」といえるようになりたい。

きょう、部屋の紙類を整理していたら、雑誌の切り抜きがいろいろ出てきた。

その中に、こんな言葉を見つけた。

迷語我に在れば発心すれば即ち到る めいごわれにあればほっしんすればすなわちいたる(般若心経)

「行動を起こさずにあれこれ考えているよりも、決心してみると意外と荷は軽いものだ。」といった意味らしい。(私なりの解釈)


あれもしなければ、これもしなければと思いながらも、出来るだろうかと不安で行動に移せない所が私にはある。やってみると、案外うまくいくかもしれないのに。
何も考えずに、頭の中の計画を行動に移そう。

 

しつこく思い続けること

早いもので、木曜日がやってきた。
「毎週木曜日更新」とタイトルに入れてしまったからには、サボる訳にはいかない。
それにしてもタイトルに更新日を入れてしまうとは、こんなタイトルのブロガーは他にいないのではないか?(確認はしていないが…。)
我ながら大胆なことをしてしまったものだと少々恥ずかしい。

さて、投稿を考えているマンガのキャラクターだけは決まっている。クマのぬいぐるみが好きなので、クマのぬいぐるみにしようと考えている。
ストーリーは…ここには書かないでおこう。

さて、以前このブログに書いたように、私は長年漫画研究会に所属していた。その時の会員とは、退会した今も交流がある人が何人かいる。どの人も熱心にマンガを描いていたが、現在は描いていない。私と同世代なので50代だが、私よりずっと絵もストーリー構成も優れていた人ばかりなのに、惜しい気がする。
そんな中で私は今もマンガ家への夢が消えないのは何故だろう。

それでも、この夢をしつこく思い続けることは、悪いことではないだろう。
この夢があることで私は、思い立ったらすぐに描くことができる健康な体を保とうと
心がけることができている。
結果、今のところ私は健康だ。

 

 

 

 

 

 

ブログ更新宣言!

前回の更新からまた間が空いてしまった…。
なんとかしてブログ更新をを継続できる方法はないだろうかと考えていて閃いたのが、

「毎週1回、決まった曜日に更新する。」だった。
頻繁に更新しなければと思うからハードルが高くなってつい更新が滞ってしまうのだ。
こんな私のしょ〜もないブログでも、いつ更新するのか待っていてここを訪れてきてくれている人がいるかもしれない。その方に失礼ではないかという気もしてきた。
それと、長々と書くのはやめて出来るだけ短い文にする。そうするとさらに継続しやすくなりそうだ。

 

さて、前回のブログでは、「年齢のことは忘れてプロのマンガ家を目指す」と宣言した。具体的にそれに向かって何か行動を起こしていたのか? といいますと、

毎日見る手帳に、「毎日絵を描く」「マンガのアイデアを一日最低一つは考える」
「○月末日締切の〇〇まんが新人賞に投稿する」と書いて、自分を鼓舞している。
絵は毎日描いていないと、ヘタ(元々ヘタなのが余計…。)になる。
十数年前に買ったスケッチブックを出してきて絵を描き始めた。道は遠いという気しか
しないが、描き続けようと思う。あれこれ考える前に行動だ。

自分を励ます、きょうの禅語
「誰家無明月清風」

 

 

 

 

 

 

 

ブログ再開にあたって

ずい分ブログの更新をさぼってしまった。最後にブログを更新したのは、昨年2022年10月だった。その後、いろいろあったが、幸い、健康を害することはなく仕事を続けている。現在も変わらずスーパーに勤務している。

どういう心境の変化できょう、ブログを更新しようと思ったのかというと、新しい目標に向かって決意表明をする為だ。それは…。

「60歳までに、プロのマンガ家になる!」

子供の頃、私の夢はマンガ家になることだった。小学生の頃から描き始めて、高校生の頃は漫画制作の通信教育を受講していた。その後、漫画研究会に20年近く入会していた。(その漫画研究会は5年ほど前に解散)それから、漫画制作からは離れていたのだが、最近某新聞で、何度も諦めずに投稿を重ねて60代でプロの漫画家としてデビューした人の記事を読んだ。私は自分の年齢が「今更投稿しても…。」と諦めていたのが、俄然やる気が湧いてきた。もう一度挑戦してみようと思った。

このブログにはこれまで、簿記3級試験合格を目指す過程を記録してきたが、これからは私がプロのマンガ家を目指す過程を記録していこうと思う。

私が今入力しているパソコンの横の壁にはコルクボードが掛かっていて、自分を励ます言葉を書いた紙がピンでとめてある。数年前に書いたメモが残っている。

「いまからでもおそくはない。今できることを一生懸命にやる。」

これをもう一度書き直して、また目につく所に貼ろうと思う。

 

 

月変わりの日に

暦では、きょうから10月らしい。そしてきょうは「一粒万倍日」で、物事をスタートさせるのに縁起が良い日だそうだ。なので、すっかりご無沙汰していたブログを再開することにした。

最後に更新したのは、かなり前だと思っていたが、確認してみたら辛うじて今年に更新していた。その後、体調を崩すことなく仕事も同じ職場で継続できているのは有り難く、幸運なことだ。

思い返せば、このブログを始めたきっかけは、何度も挑戦しては不合格になっていた「簿記3級」の資格取得に、再挑戦しようと決心したからだった。試験勉強の進捗状況をブログに記録することで、やる気を持続させようと考えたのだった。
結果、合格することが出来た。達成感に浸っている内にブログを更新する目的を見失ったような状態になり、フェイドアウトしてしまった。

それが、またブログを更新する目的を見つけた。これも、何回も挑戦した挙げ句に挫折した、「マンガ家」になるという夢だ。

このブログに、マンガを制作して新人賞に投稿するまでを記録していこうと思う。

吾道一以貫之(わがみちは いちをもってこれをつらぬく)

周囲に惑わされず、自分の道を信じて貫く

 

底力を発揮?

前回からちょうど10日目の更新。
私の車の車検と副業の締切日が間近なのが重なって今週は大忙しだった。しかも今週は本業の方も私のシフトが先週より休日が少ない設定になっていたので、体力的にも疲れた。やるしかない!とハードスケジュールに立ち向かった結果、車検も済み、副業の締切にもなんとか間に合わせることができた。底力を発揮したという感じだ。

けれど、なんのことはない、車検も副業ももう少し早くから着手していたら忙しい思いをせずに済んだのだ。私は何事もギリギリにならないとやる気にならないタイプなのだ。夫曰く、私の気質は「夏休みの宿題」だそうだ。
休みが残り少なくなってから慌ててとりかかるという「夏休みの宿題」のイメージらしい。たしかに私は、休みが残り少なくなってから慌てて宿題をやっていたが…。
ちなみにそういう夫は、いつもゆとりのあるスケジュールで夏休みの宿題を終わらせていたそうだ。(本当か?)

きょうは心待ちにしていた休日。達成感に浸りながらブログを作成している。
明日からまた仕事だ。きょうは天気もよくないことだし外出はしないでゆっくり体を休めようと思っている。

きょうの禅語。
白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく)

雲は風に吹かれて浮かんでは消えてゆくが、地面の巨石はじっと動かずそこにある。
隠遁生活を送っていた唐の時代の僧が、のんびり過ごす自分を巨石になぞらえての言葉だそう。
流れ行く雲のように、あちこち飛び回って忙しく過ごすのも充実感があるが、たまには一人でのんびり過ごすことも大切だ。

 

 

 

 

 

吉凶混合

きょうは吉凶混合の日だった。
仕事で大失敗をしてしまって心身ともに疲れて帰宅し、郵便受けを確認したら私宛の封書が2通入っていた。部屋で開封したら、2通共、懸賞の当選品だった。
商品券とクオカードだった。2通とも、応募したのも忘れていた懸賞だったので、嬉しいやらびっくりするやらだった。仕事の大失敗でガックリしていたのがどこかへふっとんでしまった。我ながら単細胞だと思ったが、悪いことのあとには、いい事があるものなんだなと改めて感じた。

誰が言っていたのかは忘れたが、ものすごく不運な出来事があった時、これだけ悪いことがあったという事は、次はものすごくラッキーな事が起こるという前触れだと考えるようにしていて、そう考えると、不運もむしろ楽しみにさえなってくるとのことだった。

生まれてから一度も不運な目にあわないという人生はあり得ないのだから、そう考えると気持ちが楽になるだろう。

きょうの禅語

割鏡不照(かっきょうふしょう)

割れてしまった鏡はもう照らすことはない。

割ってしまった鏡はもう元には戻らない。取り返しのつかない事をしてしまったとクヨクヨしても仕方がない。しっかり反省して次に進もう。

 

 

 

新たな気持ちで

久しぶりの更新。

最後の更新日を確認してみたら、2021年5月4日だったので、辛うじて一年以内での更新となった訳だ。
幸い、新型コロナにもその他の病にもかかることなく過ごしてきた。仕事も変わりなく続けている。
きょうは休日だったので、昨日から予定していた通り、北海道神宮へ参拝しに行った。朝は時折激しく雪が降っていたので行くのをやめようかと思ったが、少しづつ天気が回復して晴れてきたので、出かけた。前々から思っていたが、やはり私は晴れ女らしい。

平日のわりには多くの人が参拝にきていて意外だった。学生は春休みか?
参拝のあと、おみくじをひいたら大吉だった。ここ最近、なんとなくいい流れがきているような気がしていた。
北海道神宮から少し離れた所にある「開拓神社」も参拝した。そして、境内にある巨木に両手を当てた。勝手に「私の木」と決めていて、こうしていつもパワーをもらっているのだ。老木なので、心の中で「おじいさんの木」と呼んでいる。
「おお、また来たのかね。」と言っていると想像してみた。

北海道神宮開拓神社は、1月に初詣をして以来だ。ここに来るととても清々しく、また新たな気持ちで頑張ろうという意欲が湧いてくる。

朝は荒天だったので行くのをやめようかと思ったが、おみくじは大吉だったし、やはり来て良かった。これから何かラッキーな事が起こりそうな気がしてきた。
けれど、浮かれることなく気をひきしめていこう。

久々に、きょうの禅語。

勢不可使尽(いきおいつかいつくすべからず)

絶好調の時にも、勢いの余り失敗しないように常に謙虚な気持ちでいなければ。

 

 

 

 

 

 

 

割れ鍋に綴じ蓋

前々回のブログで、自宅の録画機器が壊れたという話題があったが、一昨日、思いがけずあっさり解決して、録画・再生ともに復活した。私の連れ合いのおかげによるものだ。私の連れ合いがメカニック関連に強いことに改めて感謝した。
なんのことはない、機器の裏側に長年の埃が溜まっていて接続コードとの接触が悪くなっていたのが原因だったらしい。

しかし、録画機器の裏側とテレビの裏側の埃の多さに呆れられた。そういえば、何年もテレビと録画機器の裏側は掃除してなかった…。

他のご家庭の皆さんは、マメにテレビの裏側を掃除しているものなのだろうか?しているとしたら、皆さん、尊敬します。
連れ合いがいなかったら、私は埃まみれの録画機器を、再起不能と決めつけたまま放置したままだったろう。「破れ鍋に綴じ蓋」とは、このことだ。

連れ合いには、「すごい!さすが〜!」「わ〜!助かった〜!」と、多少オーバーに喜びを表現した。こうすると、次回も機嫌よく(とも限らないが。)電化製品やパソコンの不具合を解決してくれる。

 

 

 

 

 

お茶を楽しむ

札幌は先週からまたもや外出自粛・他地域との往来自粛期間に入った。
何度もここで書いているが、体調に変化がなく仕事・家事・趣味と活動が出来ているのが本当に有り難いことだ。今後も感染対策について気を緩めずに無事に過ごしたい。
お灸は本当に効果があると実感しているので、「合谷」「足三里」へのお灸は今後も続けていきたい。

感染予防がきっかけで自宅で過ごすことが多くなってから、以前にも増してお茶をよく飲むようになった。コーヒー・緑茶・紅茶・中国茶をその時々の気分で楽しんでいる。

朝は必ずコーヒーを飲む。これは以前からの習慣だったが、朝食抜き生活を始めてからは、胃にやさしいような気がするという理由で、カフェオレにして飲むようになった。外出自粛ムードが広がってから、紅茶は、ティーバッグではなく茶葉で丁寧にいれるようになった。中国茶も同様だ。ティーバッグでも最近は素材や形状が工夫されていて美味しくいれられるようになっているが、やはり茶葉でいれる方が風味が良いように感じる。
きょう、紅茶の通販サイトで欲しいのがあったので注文しようとしたら、完売でガッカリした。他にも完売の物が多数あり、ちょっと驚いた。私のように、外出自粛生活を機に茶葉で紅茶をいれる良さに目覚めた人が多いのだろうか。
大勢の人々が自分と似たような思考・行動をしていると知ると、昔から私は、なんだか面白くない気分になってくる。それでいて、他人に「変わり者」扱いされるのも不快だという、複雑な心境だ。

きょうの禅語

喫茶去(きっさこ)

まあ、お茶でも召し上がれ。
一説には、「お茶でも飲んで出直せ」の意味もあるという。

このブログも結構長く続けてきたので、以前にも引用した禅語かもしれないが、こういう気分ということで…。

 

 

 

 

 

失ってみたら、開放された。

「毎日ブログを更新!と自分を追い込まず、一週間に一度程度でよし。」と決めたら、なんだか気持ちが楽になった。という訳で、きょうは前回から一週間ぶりの更新。

朝食に続いて、テレビ番組の録画をやめた。やめた、というより、やめざるを得なくなったのだが。録画機器が壊れたのだ。買い換える程の気持ちになれないので、毎日の習慣だった、「観たい番組を探して録画予約」をしない生活が開始された。
半月ほどが経ったが、意外にも何の不自由もない。
観たい番組を次々録画予約したのが溜まっていき、観るのが忙しいというのがなくなった。今思えば、番組自体を楽しむよりも、「ノルマの消化」に近かったと思う。毎日ノルマに追われているような焦りから開放された。それに、今は「見逃し配信」という便利なものがあり、番組の過去の回を一定期間限定で放送局のHPで無料で視聴できる。
自分の都合のよい時間にパソコンでゆっくり観ることができるのだ。


録画予約をしなくなってから、私のテレビ視聴時間は著しく減った。それまでは、仕事から帰宅したら、すぐにテレビをつけて、録画していた番組を2〜3時間観ていたのだが、読書をするようになった。簿記2級のテキストを読む時間も増えて、いいことづくめとなった。いつまで続くかわからないが、録画予約ができない生活は、今のところ開放感があって、快適だ。

きょうの禅語。
行雲流水(こううんりゅうすい)

行く雲、流れる水の如くに悠々と自在に場所を変え、一切のものに執着せずに生きる。

失ったもの(今回の場合、テレビ番組の録画)に固執することなく、それなりの生活に身を置くことで、新しい楽しみが発見できることがある。